「強迫性」の使い道

 当法人が開講している第4期目の「交流分析(TA)学習講座・基礎コース」は順調に回を重ね、昨日の第7回ではいよいよ「脚本と禁止令」を取り上げ、佳境に入ってきました。毎期のカリキュラム構成はほぼ同じなのですが、参加メンバーが違うので、グループでのワークはその期、その回ごとに様相が変わってきます。
 昨日もテーマに沿ったワークをしながら、それぞれ自分を振り返って話しをしていたのですが、そのなかで「強迫性」ということが話題に上りました。それほど面白くないことでも習慣化してしまうとやらずにはいられなくなってしまう。たまたま何かがあってやらなかったりするとどうも気持ち悪い。例えば週末ごとのジョギングとか、私が今はまっているブートキャンプとか。これって強迫?っていうようなことでした。
 私の例で言えば、亡くなった母が異様に筋肉の弱い人で、70才になるかならずで「子宮脱」という子宮が体外に出てきてしまう症状に始まり、それを手術した後は「直腸脱」という腸が出てきてしまうというのに悩まされて、その看病にいやというほどつき合った私は「何が何でも筋肉を鍛えて自分の内臓くらいは支えられるようにしなくては」という思いに駆り立てられてジム通いを始めたという経緯があります。ブートキャンプもその延長線上なんですね。一日おきにやらないと忘れ物をしたような気分になります。
 これはれっきとした強迫ですね。でもおかげで結構筋肉がついてきた感じで、たるんでいたお腹も心なしか引き締まったような感じがします。週末のジョギングもそれによって体調がよくなるという効果があるのだから、「強迫性」というのもまんざら悪いばかりじゃないんじゃないか、とも思ったりするわけです。
 思えばそんなに楽しい仕事があるわけでもない職場に毎日通うのだって、「強迫的な要素」がないわけじゃない。日々の掃除や洗濯にしてもどうせまた汚れるのにせっせとやるのは「清潔じゃなきゃ気がすまない」という強迫性のなせる業かもしれないし、毎日入浴するのもそうかもしれませんね。私が子どもの頃は週2回が精々でした。髪なんか週1回しか洗わないのが普通でしたね。それでも別に支障はなかったんですね。
 まぁ、毎日掃除したりお風呂に入ったりしたって支障はないわけだし、むしろ気持ちが良かったりすれば心身の健康にもいいのだし、結局は「生活に支障をきたすほどの過剰さがなければ、幾らかは強迫性があった方が物事をなしとげやすい」ということもあるのかもしれませんね。
 しかし「強迫性をほどほどに抑える」というのがなかなか難しかったりもするのですね。もともと「強迫性」というのは「駆り立てる」という要素を持っているので、つい過剰になってしまいがちなのです。「過剰な強迫性」は、非常に心身を損ないますし、「それが過剰だと分かっていてもやめられない」という苦痛をもたらします。特にそれが「完璧癖」と結びついていたりすると厄介な代物になっちゃうんですね。
 こうしてつらつらと見てくると、どこまでが「適度」でどこからが「過剰」なのか、ということに尽きそうですが、「適度な強迫性」というのも何か矛盾した言葉ですね。「適度だったらそれは強迫じゃない」とも言えそうですし。それでも、自分のなかに「強迫性」があることを常に感じている私のような人間は、「強迫とハサミは使いよう」と言い聞かせながら、うまくつき合っていくしかないのかもしれません。
 
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