子供時代

私は子供時代、どんな子供だったのか?
よく思い出すのは、小さい頃(多分幼稚園に入るか入らないかの頃)
甘い粉薬をスプーンで母に飲ませてもらっている光景。
パンダの絵の付いた、小さい赤いお椀に、母が薬を水で溶いて私の
口に運んだ。
甘い。
でも、まずい。
スプーンの腹で、薬を混ぜるザラザラという嫌な音。
もう少し年齢が上がると、プラスチックのボトルに入った液体の薬。
メモリがついていて、一回分毎にマジックで印が入っている。
これも、まずい。
なかなか減らない。
夜中に高熱を出して、母に抱かれて行きつけの小児科に行く。
母が病院のドアを叩く。
中学校ぐらいまで、私は小児科に行っていた。
日曜日に、近所の友達と母の実家にイモ掘りに行く。
でも、私はまた熱を出して、イモ掘りは出来ない。
母の実家で寝ていた。
母の弟のお嫁さんが、リンゴをすりおろして持ってきてくれた。
すったリンゴを食べるのは初めてだった。
茶色に変色したリンゴ。
でも案外おいしい、と思った。
小学校では、よく熱を出して早退した。
担当の先生が母に電話を掛ける。
母が車で迎えにくる。
病院でもらった薬を飲んで寝る。
自宅の2階の部屋で寝ている。
天井をじっと見つめる。
天井の木目を目線でたどる。
空想にふける。
もう、飽きちゃったな。
夕飯は、母がお盆にのせて持ってきてくれる。
このことを思い出すと、悲しくなる。
私は体が弱いんだ、普通の子とは違うんだ。
そのことで、母に随分迷惑を掛けているんだな。
母は私のことで、随分苦労してるんだ。
病気がちだったことで、確実に過保護に育ったと思う。
母はよく私に言う。
「風邪を引かないように厚着をしていきなさい」
「風邪が治ったばかりだから、体育は見学しなさい」
体育は本当によく見学した。
もともと運動は苦手だったので、私には好都合だった。
ただし、スイミングスクールに通っていたこともあって、水泳だけは
得意だった。
でも、小学何年生かの夏、体調を崩して夏休みのプールにずっと
行けないことがあった。
私はプールに入っても大丈夫だと思っていた。
でも母は、平熱より高いと「熱が出るかもしれないから、今日は
プールは止めなさい」と言った。
ずっと平熱より高めの体温が続いた。
その度に母が同じことを言うので、面倒くさくなって、体温計を
脇から抜くときに、わざと摩擦が起こるように抜いた。
そうすると体温計は37度を超える。
母は迷わず「今日はプールはダメね」と言う。
これでいい、と思った。
CSNにいる時、たまに「こんなことをするとかなりんに怒られる」
とか「かなりんは怒っているのでは?」と心配になることがある。
「怒られるっ」と思って身がすくむ衝動にかられる。
かなりんを通して母親を見ている。
私は母によく怒られていたんだろうか?
不思議とよく怒られていたという感覚がない。
体の弱い私を守ってくれた、という記憶。
思い出すのは、母の困ったような悲しそうな顔。
小さい頃から、母のことを「可哀想な人」だと思っていた。
祖母ともうまくいかず、父はノラリクラリ知らん顔、子供は体が
弱い。
大人になっても、なーんにもいいことなんかないんだな、と思った。
母は可哀想、何の自由もない、何の楽しいこともない。
自分の中で、母に対する何かを抑圧しているんだろうか?
沢山怒られたはずなのに、思い出すのはいくつかの場面だけ。
思い出したくないから、閉じ込めているのか?
母親像をねじ曲げているのか?
苦労ばかりして可哀想な母。
私の中にいるのは、そんな母親。
でも、可哀想なのは私だ。
可哀想な母親は、可哀想な私。
(以前のnekoちゃんのブログにも似たようなことが書いてあった)
私の中にある母親像は、私自身なんだろうか?

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