先週、東名高速で起きたトラック脱輪事故を見て、自分の経験を照らした内容です。
あれは15年前、最初の人、通称「社長」と付き合って2年目の夏のことです。
彼は根っからの車マニアで、運転はスピード魔かつテクニシャン。
それでいて安定した走行は、自分には危険を感じない乗り心地だった。
その夏も二人で外房海岸に出かけ、
その帰り道に初めて彼の車で事故を経験した。
東関東道湾岸習志野の手前ゆるいカーブのところで、
車が急に横揺れはじめ、横を見ると煙らしきものが見えた。
異変に気づいた彼はサイドブレーキを引き、ハンドルを路肩側に切ると車が傾き、火花と煙を散らせながら車が止まった。
幸いにも車は横転しなかったが、バックミラー越しには脱輪したタイヤが転がっていた。
彼の運転技術と判断で、自分らは一命をとりとめ、
脱輪タイヤもたまたま後方に車が走っていなく、
二次事故には至らなかった。
あのとき、自分は死んだと思った。一瞬のことだけど、そう思った。
逆に助かったという思いはさほどなく、車をトラウマに思うこともなかった。
自分らは反動的に笑いながら「あぶねぇ」と言い、JAFが来るのを待った。
今、彼とは音信不通だが、だぶん東名高速の事故を見て、あの夏を思い出しただろう。
それから12年後、
今度は自らの「病」で、死を感じることになった。
何気無く受けた無料検診、
ただ自分のカラダを知っておこう程度の簡単な動機だった。
もちろん結果は異常なしかと思ったが、診断結果を聞いて茫然とした。
なんだかんだ説明を受け、建物を出たものの、何をしてよいかわからないし、脳が働かない。
かといって泣くこともわからず、何か話したかった。
当時カミングアウトしていない両親ではなく、かなりんに電話をした。
ちょうどCSNではじめて企画した「エンカウンターグループ」の前日だった。
かなりんが電話越しに一生懸命話してくれたけど、
正直何も頭に入ってこなかった。
あのときも死を感じた。
そしてそれが更なる引き金になり、人生脚本を演じた。
今、病に関しては安定し、こうして日常を送っている。
この二つについて、何か遭うべくして遭った感じもしていた、自分の日常。
事故や病でつきつけられた目に見えぬ「死」のこと。
言葉の意味合いや、遭った内容にそぐわないかもしれないけど、自分は思う。
「私は二回死んだ」