通りゃんせ ~出生~

「…女の子が産まれてくるかしら」
「名前はマリコにしよう」
自分は母の羊水に浸かりながら、この会話を聞いた。
しかし、いざ産まれてみると男の子。父親は慌て名前を考え、今の自分の名前をつけたそうだ。
そのせいか、自分は自分の名前が好きではない。由来を聞けばなるほどと思うので、由来通りに生きてみせるどころか、すっかり名前負けした感じだった。
ともあれ、自分がはっきり「女の子かしら」と聞いたかどうかなんて、胎児の段階でわかるわけもない。
だが両親からこの話を聞いたのは事実で、それが自分にとって何を感じさせ、考えさせているのかも知らずに、あっけらかんとしていた。
幼い頃の記憶というのは、今の自分の有り様を正当化するものではないかと思うほど、帳尻を合わせる都合のいい残物だ。
動機づけにせよ、言動にせよ、過去の出来事の感情を鮮明かつ、そのときの状態で今に喚起されるのは、いくら心理学の手法を使っても、全てをリアルには感じられないと思う。
なぜなら、幼い自分が今の自分として考え感じるなんてあり得ないことであるし、
その逆で、今の自分がいくら幼い頃の感情を辿っても、どこか今の自分の感情がちらつくからだ。
でも過去の出来事を知ったところで、今の自分に肯定感を持てる生き方になったのかはわからないし、別の人生を歩めるという手直しが利くはずがない。
別の人生というのは想像を理想化しただけで、今の感情から解き放たれることにはならないぶん、余計に今の自分への否定感を強めるだけだ。
それが胎児の記憶に何らかの関係があったとしても、産まれつき脳細胞の何かの働きが鈍かろうが、歩んできた人生に後戻りもできない。
自分が人や社会的なものに対して、異様なまでに憎み怨むのは、後戻りすら叶わず、誤った認知すらどうすることもできない、自分自身への無力感なのか。
産まれつき「期待に添えられない」と感じただろう自分は、人や社会的なつながりや価値観というものを両親の尺度に求め、それを頼りに生きるほかなかった。
期待にそぐわないと怒られる、自分が何かを希望することを申し訳ないと感じていた。だから「おとなしくいい子」でいるしか、思いつかなかったのだろう。
ここまで被害者意識あるいは被害妄想ぶると、逆に自己認識に麻痺するところが出てくる。
それが受動攻撃か自傷行為による、歪んだ自我の確立だ。
それは「~のせい」にすることで自分を守り、今の自分の生き方を認めたくない裏付けにしたい、自己愛なんだなと思う。
自分が何をもって「いい子戦略」をとったとしても、
幼少期の記憶には、男の子で産まれよかったのか、
住み込み先の子ども達への嫉妬と可愛がる両親への怨み、
そして後に父から聞いた「育て方がわからない」という放棄されたように言われたことだ。
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