ナカノなでしこ七変化

きっかけは、一冊の殴り書き用のノートを見つけたことだった。
思えばこれまでの自分のブログは、我ながら「自己愛」に満ちたものだなと、つくづく感じた。
両親や関わった人、社会に対しての被害者意識、弱者感覚を、
自分の心模様としてずっと呪怨のように残し続け、ブログで表す。
ブログを書く際は、自己愛からくる被害者意識な思いが、いつも基準になっていた。
今でもその感じはあって、それを完全に払拭したり、受容しているかは、感覚ではわかっていない。
今までのブログはそれはそれで「405のブログ」ではあるけど、
でもさすがに「もういいだろう」と感じ初めた。
この殴り書きノートを見つけるまでは。
もういいだろうとは、その被害者意識だけではなく、別の視点を意識するというだ。
自己愛強者の自分には何ともしんどく、アンビバレンツな状態を引き起こしたり、
下手すればスタンプを貯めかねてしまいそうな思いだ。
こう言ってる自体がもうすでに「自己愛に入っている」気もあり、
別の視点とは得にくいものなのだろう。
なぜそうしたいのか。
それは被害者と表裏一体にある「加害者」の意識を、自分で持ちたいからだ。
別に事件を起こすとかでなく、また今までの思いや感じを「事なかれ」にしたり、
値引きをしたりするのとは違う。
加害者意識があることで、様相の捉え方にこれまでとは違うものを与えそうだからだ。
例えばある一つの出来事に、自分の課題や傾向から発する感情が湧き起こる。
それはそれでいいけど、じゃあ「どうするのか」に繋げるために、
被害者、弱者視点だけではあまりにも偏っていないか、もしかしたら同時に加害者でもあるのではないか、という感じがしたからだ。
ゲイのことも、病気のことも、金銭問題のことも、過去の何もかもを、
自分に味方らしきもの、たぶん自己愛を守るための被害者呪怨を装備していないと、生きていけない感じがしていた。
その感じが、もううんざりしている。
それともう一つ、先週のCS応用実践講座での講師である高瀬先生の一言。
「自分を慈しむ」ということ。
どんな自分だっていい、何かができなゃいけないわけでもない、それでも自分を慈しんでやることを。
慈しむ感覚は、今でも「なんだろう」という感じがする。
例えで、ペットのインコ「クリちゃん」の話をしたけど、
あの時は何を感じたのだろうか。
自分は「加害者にもなりうる」ことと「慈しむこと」を糧に、飛び立ちたい。
そう簡単にはいかないものだろうし、また被害者視点になることがあるかもしれない。
更には強迫的に意識するかもしれない、でも自分の中では加害者視点を通じて「人や社会」を、慈しむ感覚で「自分」意識していたい。
殴り書き用ノートの最後のページに、こう書いてあった。
「中野へ引っ越して、失ったものを、これまで自分の人生を携え、再スタートだ。
06年12月26日」
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