あの日、私はスポーツセンターに居た。
マシンを終えて立ち上がるとめまいがして、
「あ、やりすぎたかな」と思ったのも束の間、
にわかに周りが「地震だ」と騒ぎ始めた。
マシンや器材がカタカタと揺れ、
めまいのような揺れは平衡感覚を失うようで、
なんだかフワっとしていた。
館内に緊急放送が流れ、皆が一様に避難したものの、
肌寒い館外にトレーニングウェアで佇むのは風邪をひきそうで、
スタッフの方達は皆にタオルを配った。
20分後、この日の営業は中止と決まり、
早急に着替えて退館するよう指示が出て、
私はこの地震の規模を知らずにぼやきながら出た。
帰り道、最寄駅から電車に乗ろうとしたが、全線ストップ。
仕方なく歩き始めると何度か余震に遭い、
高層ビルや電柱がウネウネしているさまや、
道往く人のざわめきかたが異常に感じ、
「もしかしたらこれは地球滅亡か」と思ったくらいだ。
これはただの地震じゃないと気づいたのは、
帰り道に通った新宿駅アルタ前の人だかりを見たときだ。
ゲリラライブや休日でも見たことがないほどの人の波は、
携帯で連絡を取り合う人、人ごみをかき分け歩く人、
アルタビジョンの画面をじっと眺める人でごった返していて、
その大型画面から流れ出るニュース速報では、
津波警報が発令されていた。
私はこの人ごみとニュース速報でいよいよ不安感が増し、
とにかく家へ向かって歩いた。
メイン街道はいつもより歩いている人が目立ち、
車の往来はあるもののバスは運行停止のようだった。
そして区内へ入り、異様な光景と長時間の歩きとトレーニング疲れで、
一旦コーヒーショップへ入った。
今思うと、私も呑気にコーヒーなんて飲めたものだ。
一安心して席に座るとまたもや余震があり、
心細さから実家へメールや電話をするも回線が混雑して使えなかったが、
店内でコーヒーを飲んでくつろいでる人を見ていたら、
なんとか落ち着いていられた。
そして私はコンビニへ駆け込み、
まずはあるだけの食材やらレトルトやらお菓子を買い込んだ。
こうして家に着き、部屋を見ると散乱した様子はさほどなく、
それからテレビをつけた。
被害の甚大さを知るほどに、さみしい気持ちになっていた。
怖さの裏付けなんだろうけど、「どうやって帰った?」とか、
「無事で何より」と応答したり、共有したかった。
実際は守る人もなく、消息を気にかけることもなく、
ただ家でニュースを見て、なんとなくその日は過ぎた。
次の日、実家へ一時帰ろうかと思いようやくつながった電話では、
「家に来ても何もないよ」と安否より物のあるなしという印象が、
悪気はなくても冷たく感じ、実家へ帰ることもやめた。
後に、実家は計画停電があったり物流が滞ったりで、
逆に不便だったかもしれない。
その日以降、連日のように津波の被害、原発事故、計画停電、
食糧流通の不通と、私が経験したことのない現象が立て続けに起き、
幸いにも大きな被害は受けなかったものの、
それがどこか蚊帳の外のような印象を受けたのは、
買いだめした食糧があり、家に籠れる環境であったにすぎない。
手前味噌だけど、なにができるのかと思った。
募金、ボランティア、買占め控え、節電。
でも、なにもしなかった。
私にできることは、普段通りにしていることだ。
しかし避難生活や計画停電の様子を見ていると、
申し訳ない、こんなんでいいのかと思いやすく、
画面の向こうの非常事態にどう落ち着かせるか辟易していた。
二ヶ月が過ぎた頃からその反動に見舞われたように、
震災前に応募した会社の面接に意気を高めて挑んだり、
かつてのように飲んだくれてみたり、
諦めていた恋愛に目を向けてみたりと、
とにかくやりたいことに一心を注いだような感じだった。
猛暑も手伝ってかがむしゃらに過ぎていくも、
やるだけやって何ひとつ得られなかった。
残念だしきつい思いをしたのはたしかだが
迷いや冷静な目に気づきながら行動した結果のような気もしている。
そして、まもなく一年を迎えようとしている。
震災の風化が懸念される中で、
この一年の経験は新たな礎の一部として内在している。
もしかすると地震はきっかけにすぎず、
この心性は普段からなりをひそめてるだけのことだろう。
それよりこうして書きだすことが、
あの日を起源とした出来事の回帰になりそうです。