河合隼雄の著書の中で、
「新・女らしさの条件」というタイトルで、
こう見解を記していた。
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男と女の差をわける本質的な点について考え出すと、
あるいは新旧の差などはないのかもしれない。
それは人間にとって昔も今も、変わりのないこととも言える。
その本質的な差は、いろいろな見方ができようが、
女性の方が、自分が「存在する」ということについて、
男性よりはるかに確実に実感しうることであろう。
そこに「ある」ということ、これは心と体の結びつきの強さであって、
女性にとっては時に自明のことのようにさえ感じられる。
この点、男は存在感が弱く、それを確かめるために、
男は何かを「する」ことが必要となってくる。
このため、男たちは古来から、しなくてもいいことまでして、
文化と言われるものの表層を飾りたてるものを築いてきたのである。
実のところ、「ある」ことと「する」ことは共に重要で、
男女を問わず両者が必要となってくるのだが、ともかく、
その基本としてこのような差があることは事実である。
-河合隼雄(1981)「働きざかりの心理学」新潮文庫-
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私はつねづね、「おんなは強いな」と感じていたのだが、
それを明解にしたのが、上記の引用である。
強さにもいろいろあるが、特に存在の強さということにおいては、
男性は女性にかなわないと思う。
例えば事業所。
職員は男女半々くらいだが、指導力の強さを感じるのは女性だ。
「今あなたが話したことは、本質ではない」、
「一度私の前に来てから、話し始めて」、
「もう、やるしかないのよ」等々。
多少感情的な面もあるにせよ、そこには的を得ている感があるのだ。
なぜなら、指導をする方に「私」という強さがないと、
指示を出した方にとまどいを与えてしまうからだ。
別の例えだと、訓練生の場合。
疲れてダランとしている様は、女性のほうが「私は疲れているんだ」と、
無言で訴えているような威圧感がある。
これも「私」という強さが態度で現れていて、
筋の通った感情が備わっているように見える。
これらのことは著者が言うところの
「心と体の結びつきの強さ」の一端であり、
つまりは「心が態度や言動に現れている」ということだろう。
しかし、中には男性でもそのような人もいるが、
どうしてもそこには「社会的な匂い」がするのだ。
私が思う社会的とは世間に対して位置する個の存在で、
そこには個としての強さはあまり見えてこない。
仮に個が見えてこないことを社会性というなら、
その見えなくする強さが、防衛とか体裁と呼ぶのかもしれない。
男性に個がないわけではないのだが、
あるのだけど表層的に見えてしまうのは、個を体裁や防衛というものでふたをし、
個としての存在をかき消してしまっているからだ。
確かにそうすることで社会は発展してきたのだが、
それゆえ、体裁という脆く危うい柱で覆った個の代償は、
持ちこたえれば御の字だし、つぶれたらどうなるのか。
男性が社会的で、行動で見せようとするのは、
男なら仕方ないのか、それともわからないのか、
それともそれがこわいのか。
なにが言いたいのか。
ゲイの私は、男の端くれのようで、女にもなれるわけでもない。
私は本当の私であるために存在していたいのだ。
どんな場面でも、己の気持ちに従うくらいの強さを持ちたい。
と、朝のやや空いた電車で一読して今日も行くのだ。