当たり前、慣れ

7月1日から5日間、いつも利用している近所のスーパーが、
改装工事のため休業している。
惣菜やお菓子はコンビニより割安で、
比較的自炊を好む私にとって、このスーパーの存在は大きい。
そのため休業前に買いだめをしたものの、
日常的に営業していないとそれなりに不便さを感じている。
こう書いていると、3.11直後のスーパーの様子を思い出す。
地震の影響があった地域の物流は途絶えがちで、
スーパーは営業をしていたものの品薄状態が続いていた。
それまでは欲しいもの、食べたいものが当たり前のように買えたのに、
何らかの事情で物流の流れが狂うと、手に入らないことがある。
あのときほど、当たり前なんて脆く崩れやすいものだと強く思っていた。
しかし一週間程度で次第に商品が並べはじめ、
気づいたころには以前のスーパーの様子に戻っていた。
これは凄いことなのかもしれない。
日本の国力というのは回復、復旧力においてはずばぬけている。
戦後の復興が象徴するように、
破壊された国土や経済を戻すためにがむしゃらに動き、
短期間で諸外国が見張る成長を遂げた。
何かを計画的に行い、それを黙々とこなし、そして成し遂げる。
「努力をすれば報われる」を体現したような歴史において、
この大きな準拠枠は本当に信じてよいのか。
例えば物流を一週間で回復させた力は賞賛できるが、
一度その力と恩恵を知ってしまうと、
次に同じようことが起きると当然一週間で復旧するだろうと考える。
もしそれがかなわないと、クレームや駄目だという烙印を押し、
もっと努力をということになる。
その努力は労働力にゆだねるしかないが、
物流やスーパーといった小売業界では統廃合が続き、
生き残りをかける中で日々努力を続けている。
しかし、努力には成し遂げられることとそうでないことがある。
物流の壊滅や経済混乱がひとたび起きれば、
今までの企業努力だけではどうしようもない事態になり、
当たり前の日々が消える日こともある。
スーパーがいつも開いていると思ったら大間違いで、
いつどうなるかはそれこそ未知なのだ。
たかだがスーパーが5日休業しただけで不便と感じるこのありさまは、
私が当たり前に慣れすぎてしまっているのかもしれません。
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