後ろ姿の美学

「オトコたるもの、自分の後ろ姿に責任を持て」
と、某大衆経済誌かファッション誌に掲載されていたのを、
ある光景を見て思い出しました。
オトコはどーよで、オンナはどーだと言葉の性別変化しつつある現代に、
オトコに限定するものでもないのに。
要は「後ろ姿の表現」を言いたかったのです。
近しい間柄と非日常な空間にいるときに、その人の後ろ姿に慕情か想像かわからない感情が湧き起こります。
当法人のかなりん。
出先での移動や、講座中に後ろ姿をよく見るけど、そういうシーンではなく、
とあるライブへ出かけたときのこと。
会場がパイプイスで自由に動けるため、各々好きな場所で演奏を見られるつくりで、
たまたま自分の少し前にかなりんが一人、ライトに照らされ演奏を楽しんでいる後ろ姿があった。
よく見る光景、なじみの人なのに、このときは会場の雰囲気や非日常な空間だったせいか
かなりんの後ろ姿から発するエネルギーというのか、この人の孤高の空間を強烈に感じた。
かなりんという一人の人としての生きざまを後ろ姿に見たような、
その全てが一瞬発光した、そんな感じだった。
それはもうずいぶん前のことなのに、なぜ今更こういうことを書きたかったのかというと、
現在入院中の父が、昨日手術室に歩いていった後ろ姿を見て、
似たような強烈さを感じたからだ。
手術室へ自力歩行で入り、自分の声にも振り向かず歩く後ろ姿。
オペに対しての不安がにじむ中、父の複雑な生い立ちや想いが、
一瞬にして自分の胸を捉えた。
これも一人の人としての存在だった。
おりしも昨日は雪が降り、父の唯一の肉親だった妹、
自分からすると叔母が亡くなった4年前、火葬場へ行く途中に急に降った雪が、
参列した自分たちに何かを訴えてそうな思い出があり、
そのせいか、敏感に父の思いを後ろ姿から感じたのかもしれない。
父なりに生き、受け止めてきた現実や、それでも抜けきれない気持ちを抱え、
それでも「そこにいる」ということ。
かなりんと父を対比させるでもなく、後ろ姿が表現する「その人」というのは、
後ろ姿への責任とかよりも、ずっとその人であることを印象づけ、
その人がなんであれ歩んだことが「今そのとき」に表れ、責任には代えがたい味がある。
後ろ姿は自分の目で見ることはできないし、イメージも人それぞれ。
後ろ姿に何かを思う自分は自分として、非日常空間に見る後ろ姿には、
人を表現する美学のひとつだと思う。
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