根気は乱気

去年からレギュラーで始めたこのブログ。我ながら続いているものだ。
もちろん自分が参加するより先にブログを書いているメンバーもいるわけだから、
なおさらこのブログ自体よく続いていると思う。
自分について言えば例え週一でも、去年からブログで書きたいことを残していて、
それを振り返るにつけ、「日常を歩んできてきたんだ」と、
大げさだけど自負する。
日常を生きるとはごく当たり前そうで、でもそうでもない。
一瞬一瞬の自分の決断や感情の積み重ねが「日常」にまとまり、
それが連続すれば月となり年となる。
その日常の積み重ねは、自分にとってとても苦手だ。
それは自分の中にある日常の歩みが、とても「根気」のいることのように思えるからだ。
日常を根気よくというイメージが自分にプレッシャーやストレスをかけ、その代償を何らかのかたちで要求したがるから。
自分は根気強くない。コツコツというタイプでもない。むしろものぐさ太郎だ。
この根気のなさは、仕事でも人間関係でも生き方でも、ひょっこり顔を出す。
自分の根気のなさは、何かをしていても面倒くさいが根底にある。
例えば仕事で「ここまで」とわかっても、始めるとやり終わらないと面倒だけど落ち着かない。
こういうことを繰り返すと、続いていくことに苦痛を感じる。
ましてや目に見えないものに、じっくり取り組んでいくことなんてもってのほか。すぐに結果が出ないと落ち着かないし、投げ出したくなる。
だからといってコツコツ根気よくやれていたのは?と問われれば、ないこともなかった。
例えばエアロビクスは、病の宣告でヤル気を失い今は辞めてしまったけど、始めたのが遅かったにも関わらず、
あちこちのスタジオによく通ったりした。なかば強迫的な勢いだったけど、苦もなく、楽しかった。
根気をやっかいな自分の問題にしているのは、自分が好まないものをあえて選択して取り組み、自分の力をディスカウントするところにある。
でも中途半端を禁じているわりに、それでも続けなきゃいけないという縛りをつけ、
自分なりに極限までやっても最後には「嫌だ」の感情に身を任せ、結局ドロップアウトすることで、ダメダメになる。
仮にできたとしても周囲の評価だけは気になり欲しくなる、わがままというか「いい子ちゃん」欲求が暴れる。
あまりにもそのパターンが多かった。何も根気強くが善で、根をあげるが悪でという、決まりがあるわけじゃない。
でもそれがストレスのもとだった。
「いいじゃん急がなくても、やることやれば」
その曖昧な立場にいられず、すぐ結果を出したくなる。仕事も人間関係も、そして人生も。
更に日常において「明日何が起こるかな」なんていう楽しみは、別に欲しいものでもない。
早く明日になり、明日の自分の定位置を見つけてやっていく。それでいい。
そんな気持ちの裏に、安定こそ足元すくわれかねず、進歩もしなきゃ選択もしないという思考がある。
根気が安定を生むというなら、この二つの共存は自分にとって苦痛以外の何者でもない。
きっと社会はそれを善であるかのごとく、その発想にうごめいているのだろう。
「先のことなんてわかりゃしないよ」
そんなこと言っておいて、結局は何かの枠へと誘うこの響きには堪えがたい、イライラ感がある。
自分は、根気と安定神話をどこか敵視している。
たぶんこの感情が支配している以上、自分が生きているこの世界は恐らく脅威であり、敵のひとつかもしれない。
ましてやそれを意識しているようでは、自分で自分を枠にはめようとしていることを、ただひけらかしている感じだ。
自分の尺度が、それを解き放つまでは。
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