この日記に「ワールドな人々」が「その3」まで登場致しましたが、今日は「元祖」ともいうべきお方にご登場頂きます。その名は、岸田秀。ミキシのコミュニティーでも取り上げられ、最近は何やら「履歴詐称疑惑」なども浮上しているらしい先生でずが、私にとっては変わらず「愛すべき男NO1」の座を保っています。
思い起こせばン十年前、カウンセラーの勉強をしていた私は、始めてから5年目くらいにほとほと自分との格闘に疲れ果て、何もかも放り出して、和光大の岸田ゼミに参加したのでした。その頃ふと本屋で手にした「ものぐさ精神分析」の取り持つ縁でした。むさぼるように読みましたねぇ。そして先生に手紙を出した。思いがけなく返事が来て、「よかったら研究室に遊びにいらっしゃい」の言葉に誘われてのこのこ出かけて行きました。いやぁ、あの頃は私も若かったんですねぇ。
研究室は狭くて雑然としていて、そこで老若男女入り乱れて飲んだり食べたり喋ったりしてました。不思議で奇妙な空間でしたね。翌週からゼミにも参加するようになり、発表までしちゃいましたっけ。ゼミには有名人から無名人まで老若男女が入れ替わり立ち替わり出入りしていました。私が行っているとき立川談志さんが飛び入りしたこともありました。先生の代わりに喋りまくって帰っちゃいましたけど。ゼミが終わってからは、ゼミ生にOBやよく知らない飛び入りも加わって一騒ぎした後、街に繰り出して朝まで飲むのが慣例になってました。合宿にも誘われて何回か行きました。先生は必ず女性陣の部屋で寝るの。だーれもいやな顔しなかった。この間古い写真を整理してたら、伊香保の温泉街で一つのアイスクリームを一緒に食べてる写真が出てきた。思わず「懐かしい!」と叫んでしまったかなりんでした。
とにかく岸田秀のいるところはいつもすっごくアナーキーな雰囲気に満ちていて、一回でいやになって来なくなる人もいたけど、私は一年間通いました。特に何か勉強したとかではなく、先生とも学問的な話をしたわけでもなく、ただただ遊ばせてもらったというだけですが、不思議とそれで癒やされました。先生は、その切っ先鋭い文章や思想からはほど遠いかわいい男でした。若い女の子が大好きで、誰にでも「愛してるよ!」って言いまくってました。中には「気持ち悪い」っていう人もいたし、マユをひそめる人もいたけど、まあ、先生も含めて「娑婆のはみ出しもの」が集まって自助グループしてたみたいなものです。私が今カウンセラーをしていられるのは、あの一年があったからだと思っています。その頃知り合った若い人たちとは、今でも親交がありますが、先生にはずいぶんお会いしていません。それでもいつも「岸田秀に感謝!」という気持ちでいます。
それでは ここで「私だけが知っている(?!)」岸田語録を幾つか。
「僕ね、今教授の肩書き剥奪されてるの。一つも論文書いてないことを××の奴(教授の名)がちくったのよ。僕があんまり女の子にもてるんで嫉妬したんだって、「正論」(雑誌の名)にも言ってやったんだ。」
(「正論」の編集長が先月号の記事のことで、血相変えてやってきた。その時の会話から。)
編集長「先生、お母上の位牌を燃えるゴミに出したっておしゃってるけど、そりゃぁあんまりじゃないですか!」
先生「そうかな。あれは燃えないゴミだっけ?」
(ちょうどその場に居合わせた私はプッと吹き出してしまいました。)
「W大の大学院の仲間がね、『君の論文を無断で盗んだ教授がいなくなったから、帰って来い』って言ってくれるんだけど、断ったのよ。だってねぇ、三くだり半突きつけられた女のとこに今更のこのこ帰れるかってんだ。」
「僕がね、テレビに出たのは一回だけ。西尾幹二と組んで『クイズダービー』に出て、篠沢教授にかけてみんなすっちゃった」
それにしても見事に学問的なことは全然おしゃっていませんねぇ。それは全部著書のなかに閉じこめてるって感じでした。
そういえばこんなこともおしゃってました。
「僕は原稿書くのにすっごく時間かかるの。一言書くのにうんうんうなりながら考え考え書く。だから(ワープロの)ブラインドタッチなんて必要ないの。一本指でぽつぽつ打つので十分。」
先生は有名人だからいつも周りに人がいたけど、本当は孤独な人だと思います。「原稿」のみならず、「世間」や「権威」とも悪戦苦闘していたのでしょう。誰彼なく「愛してるよ」という言葉をばらまきながら、心底では「愛」の欺瞞性に絶望しているように見えました。そのくせみんなといるとなかなか「さよなら」が言えない人だった。そしてあの頃岸田研にいた様々な人達も、同じような「寂しさ」を抱えた人ばかりだったような気がします。
古き懐かしきセピア色の思い出です。