1993年。Jリーグ開幕。W杯アメリカ大会アジア最終予選。
 日本サッカーの新たな時代が始まってから13年。
 世界情勢も日本の情勢も変わった。
 サッカー選手も。見る人々も。そして僕も。
 94年大会はW杯出場が夢に終わった。
 98年大会は悲願の初出場を果たした。
 02年大会は共催だが自国でのW杯だった。
 そして2006年・・・
 戦う理由は変わったのだろうか?
 確かに13年前とは状況が違う。
 マイナースポーツであるサッカーを日本に広めるため。
 世界への扉を開くため。
 そういった類のものは今はないだろう。
 それに「国家のため」とかいう理由と同列で比較すべきものではない。
 ラモスやジーコに問うたなら、きっと「日本のため」と答えるだろう。
 だが彼らの言う「日本」は「国家」ではなく「文化」といったほうがいい。
 「お世話になった日本への恩返し」という意味あいが強いもので、
 ジーコは81年のトヨタカップで貰った車を今でも大切にしているという。
 「国家のため」に戦う代表選手は実は世界でもそう多くないように感じる。
 冷戦が終わって久しい。もはや国威発揚でもないのかもしれない。
 国家のために戦っていると感じられる選手もいるが、
 おそらくそれはほとんどの場合、無意識に「しょっている」のではないかと思っている。
 「国民のため」と思っている選手は多いかもしれない。
 日本代表にも少なからずいるだろう。
 言い換えれば、応援してくれる人々に喜びを与えたい、という思いである。
 いろいろなバリエーションが考えられる。
 もがき苦しんでいる国民に夢を、というものもあれば、
 プロフェッショナルなのだからそれをして当然、というものもある。
 それをしなければサポーターに何をされるかわからない、
 という強迫めいたものまである。
 「自分のため」というのは選手が意識しているかどうかにかかわらず、
 ほぼすべての選手に当てはまる理由といっていい。
 サッカーが大好きで、ストイックで、そして負けず嫌いでなければ、
 あれほどのレベルになれるはずがない。
 そんな当たり前のことをいまさら問いかけること自体が笑止である。
 「戦う理由なんてどうでもいい」というのが個人的主観的結論。
 これだけのことのために何故長々と書いてきたのか?
 それは「応援する理由」を改めて考えたかったからである。
 他人の理由は気になることではあるがどうでもいいことでもある。
 「幻想」を見たい人が多いように感じる。それも「共同幻想」を。
 成田空港で手荒く出迎えようとする輩などは極端だがいい例だと思う。
 勝手に夢を見て勝手にキレる。
 イヤなヤツらだと思う。まるで昔の自分を見ているようで。
 僕が日本代表を応援する理由は「楽しみたいから」。
 突き詰めていくと結局そういうことになる。
 02年大会は日本代表を応援しなかった。意識的に。
 理由は「楽しくなかったから」。
 本当は応援しないことが楽しかったのかもしれない。
 トルシエが大嫌いで、言いなりになっている選手たちが情けなくて、
 日本代表が惨敗することを心から願っていた。
 幻想が見たかった。だから、
 土壇場でドラマチックに逆転するゲルマン魂に投影し、
 バカにするように日本を打ち破る韓国にはジェラシーを感じた。
 今の僕はかなり冷静になった。
 サッカーに入れ込み過ぎて私生活を犠牲にすることはしなくなった。
 僕と入れ替わるようにサッカーに投影する人が増えている。
 そう感じるのは気のせいかもしれないが因果なものだ。
 どんなに応援しても、しなくても、
 サッカーの代表チームというものは、
 その国「自身」を反映したものでしかありえない。
 日本代表には日本のサッカーしかできないのだ。
 終了間際に逆転されることはJリーグでは特に珍しいことではない。
 かっこよく、さわやかに、クールに戦ってくれればそれでいい。
 どんなに汚いことをしてでも勝つというチームを僕は応援しないだろう。
 僕には僕の生活があり、ある意味では、戦っているといってもいい。
 個人的に大きな変化があったこの時期にW杯があるのは偶然だろう。
 そこに理由とか意味とかは見出そうとはしなくなった。
 それをするとしないとにかかわらず、
 そこには僕がいて、人がいて、サッカーがあって、そして日常がある。
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