僕は本物の感情を体験したのだろうか

先週末はプロバイダ変更に伴う光回線の自宅工事をするはずだった。
だが、業者が来ないという前代未聞の事態にみまわれた・・・
僕は起きている事態を一瞬理解できず、少しだけ途方に暮れたが、
現実に起きている問題をとにかく解決しなければと思い、
NTT東日本の相談窓口へ電話をし、
返事をすると言われた時間を過ぎても電話が来なければまた電話をし、
自動音声の窓口が終了してしまっても他の番号を探し出して電話をし、
少々お待ちくださいと言われれば少々でなくても待ち続け、
電話を代わると言われれば代わりの人間が出るまで待ち続け、
工事に来なかったり連絡が来なかったりした言い訳をとりあえず聞き、
言い訳には特に触れずに本題から単刀直入に話し、
納得のいく回答をもらうまで話をし続け、
次の約束の日に連絡が来なければまたこちらから電話をし、
苦言はそこそこにして問題解決のためにお互いに何をすべきかを考え、
今週末に再工事を行う手筈、その前日に連絡をもらう手筈を整え、
そのことが順調に進んでいる旨を昨日ショートメールで受け取った。
一連の流れの中、当然のように怒りの感情を体験した。
怒鳴りたい、わめきたい、ネチネチと苦情を言い続けてやりたい、
そして可能ならば会社に殴りこんで暴れたい、等々。
だが、しなかった。
Aを使うことを心掛けた。
とにかく問題を解決したいという一心で行動した。
前者はラケット感情だろうと思う。そのことは理解しやすい。
後者について改めて考えてみた。
今まで僕はどうやら勘違いをしていたように思えてきたからだ。
後者ではおそらく「リアルフィーリング」と呼ばれるものが作用しているのだろう。
だが、そうだとすると「リアルフィーリング」は個人的には「感情」と呼び難い気がする。
個人的に「感情」だと思っていたもの、
それは「感情的になる」といった言葉で表されるようなもの、
「感情的な行動」という言い方で表されるようなもの、
怒りの「感情」ならば「怒鳴る」「暴力をふるう」といった行動で表出されるもの、
おそらくそれらはことごとく「ラケット感情」なのだ。
つまり僕は「ラケット感情」だけが「感情」だと思っていて、
「リアルフィーリング」というものも「感情」と同じように体験されると思っていたのだ。
僕の気づきを言葉で表現するのはかなり難しく、
自分で書いていてもうまく説明できているとはあまり思えないのだが、
つまり、
【仮説1】
「リアルフィーリング」を感じてから「問題解決のための行動」をするのではなく、
「リアルフィーリング」と「問題解決のための行動」は同時進行的であり、
「問題解決のための行動」をすればそこには「リアルフィーリング」が自然と存在する。
【仮説2】
重要なのはAを用いた「問題解決のための行動」をすることであり、
そうすればそこには「リアルフィーリング」が自然と存在するので、
「リアルフィーリング」を特に意識する必要はない。
「リアルフィーリング」は「ラケット感情」と同じように知覚されるものではなく、
「行動」より「感情」が先に立つときにはそれは「ラケット感情」である可能性が高い。
ということなのだ。ろうか?
以上はあくまでも個人的な体験と知識に基づく考えである。
「リアルフィーリング」と「ラケット感情」を混同することが理解し難い、
という人もいるのかもしれない。
だけれども僕には「感情といえばこれでしょ?」みたいな思い込みがあったので、
(「これ」といっても「これ」と見せることができないのがもどかしい)
今回の件で大げさに言えば「悟った!」みたいな心持ちがしている。
今回僕は「怒りのリアルフィーリング」を体験したのだろうか?
だがそれは、僕がTAをより理解するためには重要なことなのだが
実践的には「リアルフィーリング」か否かはあまり重要ではなく、
「問題解決をしたくてそのための行動をして問題を解決した」
という成功体験のほうがはるかに重要なことなのである。
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